Dr.伊藤のひとりごと

アミン大統領。そして大事件

医学生の6年生のとき仲のよい仲間が集まって学生臨床実習としてこの東京医大霞ヶ浦病院を選んで勉強にきたことがあり、ここ茨城県阿見町にやってきたのは2回目であった。ここの消化器外科は新宿の消化器外科と過去に色々ないきさつがあったみたいでお互いに仲がよくないことは、ここの医局に挨拶に行った時に直感した。まずは、新宿の大学病院を本院と言うのは禁句なのである。ここの消化器外科のS教授と大学のK教授は同級生で、大学の外科の教授選でS教授が戦い敗れてこちらに来たことを聞いたことがあった。S教授についてきたのはほとんど野球部出身の後輩医師であり、ここはまるで大学の部活の延長にあり、僕は、またまた運悪く上下関係の厳しいところに飛び込んでしまった。

S教授は見た目予想であるが、身長190cm、体重120kgを超える身長176cmの僕が見上げるほどの巨漢であった。声は低く、ここの大統領には絶対に誰も逆らうことなどできないとすぐに確信した。相撲ファンなら解ると思うが、元横綱の曙を想像していただければよい。そういえば皆が彼のことを裏でアミン大統領(ここは阿見町であった)と呼んでいた。外科の医局の朝礼で毎日手術報告とその日の行事や手術予定があったが、大統領の親分は真ん中のソファーにどっかりと座り、その周りは若頭の助教授や番頭の講師、そして次にしたっぱ助手という順番に並び、僕なんかはドアのところの見張り番といった感じであった。おそらく見たことはないが、やくざの世界はこんなものだろうなと思った。

僕の上司にはY先生がついてくれた。茨城弁がバリバリの明るい先生であった。茨城弁は最後にだっぺが付くのが特徴である。最初はなかなか言葉に慣れなかったが、そのうち自分もだっぺを使うようになっていたのには驚いた。

さて、赴任した初日の手術は2-3歳の男の子の鼠径ヘルニアの手術であった。前任の同期の外科医S君が残していった置き土産であった。手術指導はY先生であり、手術の説明も手術申し込みもすべて終わっていて後は手術をすればよいだけとなっていた。こどもの鼠径ヘルニアは厚生中央病院でかなりK先生から教えてもらってある程度は自信があった。

手術を開始して型通りに操作を進めていった。おかしなことにヘルニアが見つからないのである。Y先生いわく、「このあたりをちょちょっとはがして結んでおけば癒着で組織がくっつくから大丈夫。早く創を閉めるっぺ。」何となくおかしいと思ったが、逆らうこともできず、手術が終了し、子どもは病室に帰った。

そこで、大事件!こどものお母さんから「ヘルニアといわれたのは手術したのと反対側なんですけれど?」とのこと。Y先生は平然と「いやー、両方にヘルニアがあったので今日は小さいほうをやって、大きいほうは後にすることにしたんだ。1週間後に反対側をやるっぺ」。お母さんは納得してくれたが、僕はびっくりこいた。えーー?ここではこんなことが許されんか。原因は前任者の字が汚くてカルテと手術申込書の右と左がよくわからなかったためであることが後に判明した。

20年以上前のことでもうすでに時効ということで許して欲しいが、今考えると背筋がぞっとする。子どもは2週間後に元気に家に帰った。もちろんだれもS教授には本当のことは報告していない。