Dr.伊藤のひとりごと
ぼく、死んじゃうの。パート2
(2004年01月2日)
この子の名前はA.H.君。ようやく集中治療室から一般病棟に移ることができた。病室では骨盤骨折のため体を浮かせるための特別の牽引装置、それから毎日の創の消毒と人工肛門の処置。一番大変だったのは、直腸が破裂して骨盤腔へ膿汁が流れ込み膿瘍を形成していたため、その場所を毎日洗浄しなければならなかったことである。一日2回の洗浄が行われた。日曜や休日も洗浄が行われなければならず、当然これは新人医師である私の役目であった。本当に痛かったのであろう。処置のときはいつも大声で泣き叫び、病棟中にその声が響いた。毎日がぼくと彼のいわゆる戦争状態であった。いつもこの子が言うのは何でこんな痛いことをしなければならないのか。もういやだ。もういやだの繰り返しであった。前にも書いたが後腹膜の出血はじわじわとまだ続いており、毎日輸血が続けられた。血腫は徐々に大きくなり、腹腔内の臓器を腹側にかなり圧迫していった。忘れもしない病院が正月休みとなる12月28日。その日は病院の診療は午前中に終わり、午後からは休みとなる予定であった。ぼくは、久しぶりでやっと少し休みが取れることを期待していた。O先輩と午後の2時ぐらいに回診して、それが終わったら待ちに待ったお正月休みのはずだった。「伊藤、A.H.君を見たら解散しよう。明日から正月休みだ。病棟の処置よろしく」。O先輩がそう言って二人でA.H.君のところに向かった。A.H.君はとても元気であった。おなかの張りが取れたと喜んでいた。ぼくらは、布団をめくり、病衣を開きおなかを診察した。その時、ぼくらは二人とも、声を失った。・・・・・・・。
なんと人工肛門の横の創からかなりの部分の小腸が体の外に飛び出しているではないか。ぼくは思った。「ぼくの正月休みは完全に消滅した」と。そして、O先輩からすぐさま一言。「伊藤。緊急手術だ。看護ステーションに行き状況を看護婦に伝え、家族に連絡、手術室の申し込み、輸血の申し込みだ、すぐいけー」と。ばたばたと手術の準備が進み、ストレッチャーで手術室に向かう途中。ことの重大さを気がついたのだろう。A.H.君は横にいたぼくにささやいた。「伊藤先生。ぼく、死んじゃうの」。ぼくはできるだけ自分の動揺を彼に悟られないように笑顔で言った。「大丈夫だよ。この前より簡単な手術だよ。君は眠っていればいいんだ。心配ないから安心していいよ」。手術はうまくいった。A.H.君も次第に元気になっていった。2ヵ月後、ぼくは彼の担当医をはずれてほかの科に移っていた。彼が、入院中松葉杖をついてぼくのところに挨拶しにきててくれた。ぼくは涙が止まらないくらい嬉しかった。その後、何かの理由で彼は慶応病院に転院したといううわさを聞いた。彼とはその後会っていない。今、彼はどうしているだろうか。ぼくが大学にいる間に小児の外傷を中心に学会で発表し、いくつかの医学論文を書いたのはこのような思い出があったことも一つの理由である。 またまた、ひとりごとが長くなってしまった。