Dr.伊藤のひとりごと
初めての患者さんの死亡確認
(2004年01月16日)
ぼくは大学病院での外科の研修医2ヶ月の新人医師であった。何もかもが新しくいろいろなことを経験する時期であり、ぼくにとってこの研修1年間は本当に大切な期間であった。
初めての研修は呼吸器外科であり、ほとんどが肺癌の患者さんであった。肺癌の患者さんはこんなに多いのかと思うほど患者さんが入院していた。当然、末期がんの患者さんもおり、余命も少ないと思われる方もおられた。呼吸器の病気であるため、息が苦しいため酸素が与えられているひとも多かった。患者さんはKさん。ぼくにとっては父親ぐらいのおじさんだった。手術不能で放射線治療をうけていた。しかし、徐々に癌は進行して、両肺に胸水が溜まり呼吸も苦しそうであった。ぼくが、診察に行くといつも酸素マスクをはずして大丈夫だよとニッコリとしてくれた。ぼくはこのKさんが大好きであった。そのため、時間があると彼のところに行って世間話をしたりした。苦しいところをさすってあげるととても喜んでくれた。今考えると、彼にとって、ぼくと話すのはつらくても我慢してくれていたのかもしれない。彼はだんだん元気がなくなっていくのはだれが見ても明らかであった。先輩先生は、家族にKさんがいついってもおかしくない(死んでもおかしくないという意味)を説明していた。Kさんも自分の命が長くないことを知っていたであろうが、何も自分の病気のことについて僕には聞いてはこなかった。もしかして、ぼくは信頼されてなかったのかもしれない。ある日の日曜日。病院は当然休みであった。新人医師のぼくには休日も祝日も関係なく、毎日処置や回診で病院にいくことは当たり前であった。その日も朝から仕事をしていた。先輩先生はその日はどこかに行くとか、アルバイト(ドイツ語でネーベンといっている)にいくとかで二人とも病院には来なかった。家族の方も面会時間の午後からでなければ来ない予定になっていた。朝の9時の回診ではKさんは比較的元気であり、すっきりとした顔をしていた。相変わらず呼吸は苦しそうであった。Kさんはそのときぼくに笑って「先生、世話になったな。休みなのに悪いーな」といった。ぼくは、一回りしたらまた来るからといって病室を離れた。その1時間後、ポケットベルが鳴り、Kさんが急変して呼吸と心臓が止まったという連絡をうけた。ぼくはすぐに駆けつけたが、誰も助けてくれる医者はそばにいなかった。家族と先輩医師をすぐに呼ぶように看護婦さんにお願いした。少なくとも家族が来るまで心臓を動かしておきたいということで、自分で気管にチューブをいれ、心臓マッサージをして救急処置を行った。何とか心臓は少し動き出したが、薬が切れるとすぐにとまりそうになった。Kさんの意識はなく、家族と先輩がくるまで待った。ぼくにとってものすごく長い時間を感じた。家族はなんとか心臓が動いているうちに到着できた。心臓がまた止まりそうになり、ぼくは、また心臓マッサージをしようとしたが、Kさんはぼくに「先生、もういいよ。俺がんばったからもういいよ」と言っているように感じた。家族の人たちも「先生、もういいです。うちの父さんがんばったから、もう楽にさせてあげてください。父さん今までありがとうね」といってぼくを制止した。ぼくもそれが一番よいと思った。ぼくは看護婦さんとともにKさんの死亡確認をおこなった。これがぼくにとって初めての患者さんの死亡の経験であり、ぼくは恥ずかしいことに涙がとまらなかった。そのときのぼくはKさんの家族の一員になっていた。先輩は結局死亡確認に間に合わなかった。ぼくはKさんのおかげで医者として一歩前進することができた。これがぼくの初めての患者さんの死亡確認であった。