Dr.伊藤のひとりごと
話題のドラマ「白い巨塔」
(2004年02月7日)
医者でない友達と話をすると、必ず今話題の白い巨搭の話になり、お前は財前教授と里見助教授についてどう考えると質問される。ぼくが新人外科医になった20年前の外科教授回診の光景はまさしくあのドラマとそっくりであった。本当に教授は偉く、雲の上の存在であった。新人医師が教授に口答えすることなど絶対にあり得ないことであった。当時の外科の世界は体育会系の続きのようであり、極端に言えば先輩がカラスは白いといえばカラスは白かった。先輩に今日はデートがあるのでお先に失礼しますなどの言葉も絶対にありえない禁句であった。とにかく新人研修医師は限りなく病院で働き蜂のように働かなければならなかった。当時も労働基準法などというものは存在しただろうが、そんなものとは無縁の世界であった。その体制は今の大学病院において何も変わっていないかもしれない。ぼくは、幸いにもあのドラマのような訴訟事件を経験しなかったが、20年前にもし自分があの研修医と同じ立場にいたら、何も考えずおそらく教授の命令に従い同じような過ちを犯したに違いない。
昔、内科医は頭脳、外科医は腕と言われたが、現在は外科医も頭脳がなければ教授や助教授になれない。小説のなかの話とはいえ財前教授はあのドラマの中で犯した罪、すなわち転移の疑いがあるにもかかわらず精密検査を怠ったこと、説明責任を果たしていないことやカルテの改ざんの指示などは絶対に許されるべきではなく、誰もが当然彼は有罪であると考えるであろう。また、話の中でいろいろな教授選の裏取引や駆け引きが出てくるが、実際に同じ様なこともある。それをここで書くつもりはないのでやめる。医療訴訟のことを含めあの事件がなかったとして財前教授が実際に現代の社会に仮に存在するとすれば、頭脳優秀かつ手術もできる理想の外科医である。実際に有名大学のある教授で財前先生にとても似ている教授がおり、外科医の先生であれば「ああ、あの先生ね」と思うであろう。古いお年寄りの先生方、特に外科の先生は最近の外科医はインパクトファクター(海外の英語論文の点数で点数が高いほど優秀)の点数がどうちゃら、遺伝子がどうちゃら、統計がどうちゃら言ってどうする。外科医は手術が勝負、腕が悪くて手術のできないのが教授になってどうするなどと嘆く。これはぼくが言っていることではないので誤解しないで読んでほしい。しかし、ぼくがそのお年よりの先輩先生方に、「先輩の先生、今は時代が違いますよ」と強くいえないのもやはり情けない。考えるに現代の若い外科医は財前教授のような頭脳が優秀で手術もできる姿を理想としており、手術の腕だけで生きていける時代はもう終わった。余談ではあるが、白い巨塔のドラマの中で財前教授の役を演じている役者は昔の財前の役を演じたあの自殺した田宮二郎のほうがよかったと思うのは、ぼく一人だけであろうか。
話は戻るが、白い巨塔で裁判の原因になっていたのは手術ミスではなく、手術適応の判断ミスである。手術前に転移の可能性があれば、もっと精査を行うべきであった。転移の可能性も当然本人と家族に説明すべきであった。その結果、肺の変化が転移か炎症性変化かの判断ができず、手術をして、患者さんが急変して死亡したとしても、それは訴訟にはならなかったであろう。あの話はノンフィクションではあるが、自分も医者の立場で実際はあの肺の病変を100%転移と判定することは難しかったと思う。しかも一個の肺転移であれば、現在では、胃と肺の2箇所の手術を積極的に施行する可能性もかなり高い。
しかし、もしも胃がんで肺に多発の転移があれば、一般には手術適応とならず、手術をおこなうことで余命が短くなる可能性が高い。ただし、胃がんが進行して、食物が通過しないで幽門狭窄になっている場合は、転移があっても胃と腸をつなぐ手術をすることがある。もちろんインフォームドコンセントといって本人と家族に説明と了解のもとにおこなわれる。手術をおこなわない場合は抗がん剤による化学療法を選択するか、何もしないホスピスケアを選択するかのどちらかであろう。化学療法もかなり苦痛を伴う。
実際は教授が患者さんに直接説明をすることは珍しく、一般には主治医がおこなうことが多い。そのため訴訟は主治医が訴えられることが多く、教授はその代表指導者という立場での責任を問われる。主治医はしっかりと患者さんや家族の方が納得するように説明し、このような危険性、合併症がありえることを説明し、もし手術や処置により不幸にも何か問題が発生したときに、隠すことなく説明すれば訴訟になることは少ないと思う。しかし、今の日本はアメリカのように何でも訴訟や裁判(訴えてやる)の傾向が強くなっている。最近は説明する医者たちもかなり患者さんや家族をけん制し予防線をはって、手術の説明の際にあれこれと合併症の話をして、最悪の場合は死ぬこともあり、それでもよかったら手術の承諾書にサインをしてくださいなどと話す(実際、ぼくもそうしていた)。
インフォームドコンセントとは本当にこれでよいのだろうか。患者さんがこんな死ぬかもしれないような手術の説明を聞くと、だれも怖くて手術なんか受けたくない気持ちになる。合併症は当然あり得ることであり、これをしっかりと説明することは当然であるが、医者が自分たちのできる範囲で最善を尽くし、もし失敗があったらミスはミスと認め、隠さない、素直に謝罪する、裁判となってもそれは仕方がないぐらいの覚悟を持って、「手術はぼくらに任せてください」といえる医者がもっとたくさんいてもよいもんだ。