Dr.伊藤のひとりごと

UCLA 肝移植体験記

先日、心臓病の10代の女の子の募金が集まり心臓移植のためにアメリカに旅立ち、移植を受けた番組が放送されていた。そこはロサンゼルスのUCLAメディカルセンター。僕が10年前に留学した所であった。見覚えのある手術室や病室、懐かしかった。UCLAへの肝移植のための留学の話は突然であった。話があったのが1995年2月で、渡米は5月と急な話であった。この間3ヶ月は留学申請書類の作成、パスポートやVISAの申請、あいさつ回り、荷作りなどなど本当にバタバタの生活であった。以前、脳死肝臓移植のために胆道閉鎖症の乳児をウイスコンシン州立大学に付き添って連れていったことはあったが、家族同伴のアメリカ滞在生活は初めてのことであり不安であった。ロサンゼルスに到着した次の日にUCLAの肝移植グループのProfessor Bに挨拶に行った。教授は明日から手術に参加できるのかと聞いてきたが、後輩が準備に2週間はかかるので無理であると話してくれた。後輩は、教授はわれわれを単に手術の助手としてしか考えておらず、給料を払わなくてもよい日本人外科医は非常に使いやすいと思っているようだと語った。

とりあえずUCLAでの肝移植の臨床研修がスタートした。肝臓移植はドナーが出なければ、その日は回診のみで手術はなかった。当時のUCLAの肝移植手術数は年間約150でピックバーグについで第2位であった。現在、手術数が増加しUCLAが世界第1位となっている。ドナーがいれば1日に2-3件の肝移植をやることもあった。ドナーの確保はフェローと何人かのスタッフが臓器のハーベスト(収穫という意味)に深夜に出かけて肝臓を持ち帰り、午前7時ごろから手術が始まった。手術時間は肝臓摘出が2-3時間、移植が3-4時間といったところで、午後2時には手術が終わっていた。手術が終了した後は教授回診があり、ほかに仕事がなければ午後4時ごろには帰宅できた。レジデントはそれから本格的な仕事が始まり、患者管理や検査データーの整理、回診の準備などほとんど家に帰れない生活をしていた。

ぼくは半年で60数例の脳死肝移植の手術と数例の肝臓手術に手洗いをした。ハーベストには10回出かけ、夜中にコーディネーターから呼び出されリムジンに乗って飛行場に向かい、プライベートジェットでアメリカの各州に飛び立ち、ドナー手術をして明け方に帰ってきた。UCLAの屋上からヘリコプターで飛び立ちサンディエゴ小児病院にドナー手術に行ったこともある。治安が悪いところはドナーのある病院までパトカーに乗って連れて行ってもらったこともあった。移植肝臓をサンディエゴのある病院に一人で運ぶようにいわれてリムジンでそこに向かったが、道に迷い病院がわからず遅刻してしまい非常に叱られたこともあった。今思うとぼくは貴重な経験をしたと思う。

初めの頃には手術中に英語のhearingができずに非常につらい思いをした。留学前に2年間ぐらい英会話学校に通ったたこともあり、少しは会話に自信があったが、その自信もすぐに崩れてしまった。簡単な言葉であるが、あまり学校で教わらなかった英単語をいくつか書いてみる。Let it go. ASAP, scrub. splash, irrigation, pinch, step、etc。Let it goはラゴーと聞こえ、離せという意味である。この言葉を理解できなければどのような目にあうかは想像できるはずである。ASAPはAs soon as possibleできるだけ早くまたは大至急。Scrubは手洗い。Splashは水をかける。Irrigationは洗浄。Pinchは摘む。Stepは足台である。はじめは戸惑ったが、言葉には意外に早く慣れた。

移植ばかりの手術に参加していると頭が麻痺してしまい、帰国する頃には肝移植は簡単な手術で自分もできるような妄想を抱いてしまった。いつもUCLAの移植外科医になぜ日本はほかの外科手術は世界的にも高水準にあるのに移植ができないのかと聞かれた。それに対してぼくは日本では脳死移植が法律で認められていないからと答えた。帰国後に脳死移植法案が制定されたが、今でもそれほど多くの脳死移植は行われずに海外に移植を受けに行くヒトがたくさんいる。その理由をここで詳しく書くわけにはいかないが、やはりその国の宗教、思想、歴史が関係していると思う。さて、今回UCLAでの肝移植体験記の一部を書いてみた。